その気持ちは「正しい」かを問いたい2024年

お久しぶりです。昨日は節分でしたね、お店に並ぶ恵方巻きを見て気づきました。

 

例えばブログで、自分が食べたものや行った場所、観た(読んだ)エンタメを紹介したい、というのはおおよそポジティブな感情から行われていると思います。自分が感じた良かったという気持ちをみんなに伝えたい、というような。

対して、私がブログを書きたいと思うのは、ネガティブな要素による場合が多い、というか、そういう気持ちに沿って書く方が楽だと気づきました。腹が立つ、納得がいかない、悲しい。最近、そういう感情が溜まってきましたので、久しぶりに書きます。

 

職場に、あまり仕事が得意ではない方がいます。

私も得意ではないので偉そうなことは言えませんが、しかし得意ではない、というか不得意です。職場内での評価も、満場一致で「不得意」です。

困ったことに、この方は、職場内では皆を管理する立場です。まあ、かけらもできていないんですけれど。どころか、気づくと「明らかに重要ではないがやりやすい仕事」をやり始めます。実は大事な仕事、などでは決してなく、むしろ周りに投げていい仕事というかこちらは投げられるのを待っているのに自分でやり始める。なので、おいこらちょい待てwwとむしり取らねばなりません。

 

そんな感じなので、あちこちから不満が出ますし、私自身、怒りに近い感情を抱く場面も多々あります。そして、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、のとおりもうやることなすこと全てにイライラするわけです。使った引き出しが微妙に閉まっていない、午前と午後にそれぞれ一回は自販機へ行く、後ろに手を組んでちんたら歩く。会話中に何笑っとんじゃ、なんてところまでくるともういちゃもんですね。

そこでふと考えるのが、このイライラは正しいのか、という疑問です。

もちろん、改善の余地はありますが、先に列挙した行動は別の人であれば全くもって気になりません。「例のあの人」だから気になる。坊主が憎くて身につけている袈裟まで憎たらしく思えてくるように、仕事ができないと思っている人の、仕事には(直接)関係ない部分にまでダメ出しをしている自分がいます。

 

仕事ができるかどうか、という評価はそれ以上でも以下でもないはずです。なのですが、それがあたかも一人の人間の全てだと考えてしまう。かつては、仕事ができない自分を全否定する思考回路に、私自身が陥っていましたが、その考え方は健康的ではありません。

仕事は「ダメ」かもしれませんが、それ以外の挙動については、また独立して評価するのが正しいのではないでしょうか。仕事ができないから引き出しをきちんと閉めない、だらしないというのにどの程度の相関関係があるのか、私にはわかりません。そして、100%そうだと言えない限り、「この人」のだらしなさが何に由来しているのかはわからず、考えても仕方がない。

考えても仕方がないなら考えない。それは決して他人のためではなく、以前の思考回路に戻らないように、自分を守るためなのです。

人間なので感情的になるのは仕方がありません。大事なのは、どう感じるのかを受け止め、その感情が生じた原因を突き詰めていくことだと思います。そうして、私が今感じている/考えていることが正しいかどうかをいちいち自問するのが、今年の目標です。

 

「その人」に対し、仕事中にイライラするのは自分に害があるからなので正しい。しかし、行動の一つ一つにまでイライラするのは、正しくないのではないか。怒りは不愉快な感情ですし、ストレスも溜まりますから、できるだけ感じ取らないようにしたい。

そう考えつつ、深呼吸をして仕事に取り組む今日この頃です。