8/14晴れ、労働の日々再び

8月1日から生活費を稼ぐための労働を始めました。

 

とりあえず二週間ほど働いたけれど、今のところは大きな不満はなく、むしろ「一定時間作業をしてその分の給料をもらう」というすんごく正しい(そして当たり前の)労働ができて助かっている。

パートタイム採用なので1日の労働時間は8時間に満たないし、月20日にも少し足りない。そして、パートタイマーという立場上、おいそれと残業もできない。なので、所定の時間内に仕事を終わらせるべく就業時間中はほぼ全力疾走をしている。処理すべき量が膨大なため、ひたすら手を動かす。終わった分がきちんと消えていく山を見るのは達成感があり、正直、楽しい。

加えて、余計なことを考えなくていいのもストレスフリーだ。「組織の中で働く上での成長」とか「こじれている人間関係の調整」とか「士気を上げるための弁当注文」とか、今、目の前にある書類以外のことは考えなくてよい。もちろん、たまにお弁当を注文するのは楽しいけれど、それは私の本来の業務からは少しずれているし、数十分単位で仕事は遅れていくのだ。

ついでに言えば、「組織の中で働く上での成長」は何事も経験だよという言葉とともに面倒を押し付けてられているだけの場合が多いし、「こじれている人間関係の調整」に至っては、職場の誰にもわからない理由でヘソを曲げている40過ぎの人間の機嫌を取るのではなく、その人をカウンセリングにでも連れていくのが正解だと思う

退職金と貯金で半年以上は生きていける算段だったとはいえ、減っていくだけの預金口座残高はやっぱり怖かった。働く意思はあっても採用にならなければそもそも働けない。他の人がやりたがらない仕事、給料が低かったり体力仕事だったり、とにかく選ばなければ就職できるという考えもあるだろう。しかし、採用後は生活や仕事を継続させる必要があり、あまりに給料が低かったり続ける目処が立たない仕事は現実的ではない。生きていくためには、仕事を選ぶ必要がある。

だから、無職のまま7月に入ったときは正直焦っていたし、このまま決まらなかったらどうしよう、と考えてはとにかく応募するぞ!と切り替えて行動した。採用の連絡が来たときはほっとした。収入が確保できるという見通しには、それくらいの力があるのだ。

 

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私は基本的にいつ死んでもいいと考えている。自らそっちを選ぶことはないけれど、例えば車が突っ込んできたら避けないかも、的な。だから、何かしらの事情でそっちを選ぶ人がいても、まあそういう考え方もあるだろうと思ってしまって、そっちを選ぶなんてとんでもない!という意見がいまいちよくわからない。

だからこそ、今ここで死ぬわけにはいかないと思えるような何かを見つけてみたいと思っている。それは仕事でも趣味でもいいし、人間関係でもいい。続きが楽しみだという感情でも、最後までやり遂げたいという責任感でもいい。そういう余計なことに興味が湧いてくるのは、(わずかではあるが)経済的な余裕のなせる技であり、元気な証拠なのだ。