1/26晴れ、呪い呪われあめあられ

職場でハンドクリームを塗ることができなくなってしまった。もっと言うと、人前で、塗れない。

 別になんだということではないのだが、きっかけは父の言葉だと思う。

「職場の女性が、かさかさハンドクリームを塗る音が気になる」

最初は神経質だなーと思っていたのだが、なるほど確かにうるさい人がいる。職場で隣の方、席を立つたびにハンドクリームを塗る。午前中だけでも何度かトイレに行っているようなのだが、そのたびに、確かにかさかさかさかさクリームを塗っている。回数が多いのと音が大きいので、気になるようになってきた。

で、申し訳ないのだが結構ストレスになる。また塗ってるとかかさかさうるさいとか余計な情報が入ってきて、そのことに気を取られること自体にイライラするのだ。一度気にするとさらに気になるという、負の連鎖。

そうなると、自分が塗るときも気になってくる。もしかしてこれ、周りの人に迷惑になってるんじゃ、いやまあさすがに考えすぎだろ、なんていろいろ考えて、もう考えるの面倒だからいっそ塗るのやめるか!とやめてしまった。まあ、私自身の性格的な、ハンドクリームを塗るまめさがないという問題のほうが大きいんだけれど。

 

 

以前、ブログ外で「みんな頑張っている」を呪いの言葉だと書いたことがある。とらわれて、自分や周りの精神に悪影響が出るのが呪いの言葉。なので、父の「ハンドクリームを塗る音が気になる」発言が、私にとっての呪いの言葉になってしまったといえる。もちろん、呪いなんて表現は大げさな、ささやかな出来事だけれど。

 

こういった呪いの言葉を、私たちはいつの間にか発している。悪意がないたまたまの発言が、誰かにとっての呪いの言葉になる場合が多いからだ。そんなつもりはないのだけれど、相手が勝手にその言葉を気にしてとらわれてしまう、的な。なので、呪いの言葉を発しているなんて、自分では気づかない、というか気づきようがなかったりする。

そして困ったことに、その呪いはきちんと返ってくるようなのだ。その対象が自分とは限らない。周りの人、自分を慕ってくれる大事な人に害を及ぼしたりもする。

例えば、お父さんが食卓で仕事観を述べる。「若いやつほど残業しないとな」、なんて言って、それを子どもが聞いている。小学生くらいかもしれない、仕事に就くのなんてなんてまだまだ先の、幼い子どもだ。そのときは、それで終わり。

でも、もしこの言葉を覚えていたら、どうなるだろう。大きくなって社会人になって、たくさん残業するかもしれない。お父さんが言っていたその言葉を信じて、がむしゃらに無理をする、そのきっかけになってしまうかも。

この父親の「呪い」は、きっと職場の若手職員を蝕むし、父親自身もその呪いにとらわれて生きてきたのかもしれない。そして、父が望んだのかそうではないのかに関わらず、子どもにまで影響を及ぼす。

 

これはたとえ話だけれど、誰かの何気ない一言にとらわれることって、誰にでもあるんじゃないだろうか。私は結構ある。父親がばりばりの営業マンだった頃の、バブル~崩壊時代のむちゃくちゃな仕事の仕方を聞いたりして、働くってそういうことなのかと少々過激な思い込みができてしまった。参考程度に話したつもりが、相手の中ではそうしなきゃいけないという強い義務感に育ってしまう。

そして、みんなが忘れた頃に効力を発揮する。自分の何気ない言葉が、時間を経て、大事な人を傷つけるのだ。

 

そんなのいやだ、といっても防ぎようがない。自分の言葉のどれが、相手に突き刺さるのかわからないのだから。相手を呪うことを恐れていたら、今度は何も言えない。自分が言われて気になった言葉は使い方に気をつける、それくらいしか、できないんじゃないだろうか。

 不完全燃焼だけれど、今回はそんな感じ。呪いの言葉については、もう少し考えていきたい所存です。

 

 

もし、今、呪いの言葉にとらわれている人がいるのなら。

その呪いは自分で解くしかない。誰にどんな言葉を、呪いに対抗できるくらいの素晴らしい言葉をかけてもらっても、自分が受け入れなければ呪いは解けない。王子様のキスを待つのではなく、王子様にキスするくらいの勢いで……まあ、それは違うか。