M-1を見ない理由と星占いを信じない理由は同じ

 

先週、M-1グランプリが放送されていた。自分が見始めたのは後半からで、優勝したウエストランドのネタを2本とも見たことは覚えている。それ以外のコンビのことは、残念ながら記憶にない。

ウエストランドを覚えていたのは2本とも同じ構成だったことと、審査員が「悪口だ」と評していたのをなるほどと思ったからだ。二人の人間が話している内容を、話の展開を追いながら覚えるのは難しいけれど、「悪口だよ」とラベルを貼れば記憶に残りやすい。誰も傷つけない漫才から悪口漫才、という流れもやっぱりわかりやすい。

 

M-1について、昔は見ていたがここ2、3年はいつ開催されているのかすらわかっていなかった。ネタ番組自体をテレビで見ないせいか近年は知らない人ばかりで、まず顔と名前から覚えないといけない。男か女か、特徴的な見た目や声か、というところで判断していると、標準的な二人組が続いた際に「さっきと何が違うんだ?」とやや混乱する。

それは面倒だから見ない理由なのだが、もう一つ嫌な気持ちになるから見ない理由が存在する。嫌な気持ちというほどでもないか、少しばかりもやもやするくらいか。

 

なんとなしに第三者の考えを知ることができる、それがもやもやの原因だ。

今やSNSをチェックすればタイムロスほぼゼロで他人の感想を知ることができてしまう。今のおもしろかったな、と思ってぽかんと口を開けながらSNSを見てしまうと、さっきのはこういう意味だったね、こことここが関係しているんだね、なんて「考察」が目に入る。もちろん、それが合っているのか、製作者側の意図通りだとは限らない。しかし、私もそのからくりに気がつきたかった、自分の頭で発見したかった。純粋な悔しさを感じる。

わたしとあなた、真剣なタイマン勝負をする余裕がない。かつて、テレビの感想なんてものは次の日に学校へ行ってから友人と伝え合うのが常だった。夜、自宅で見たテレビ番組を、まずは自分の中でゆっくり消化する時間があったわけだ(そして、余計なことを口に出す家族はうるさいと理不尽に怒られる)。

今、私が考えているところだったのに!という子どものかんしゃくなのはわかっている。しかし、小さなもやもやの種はSNSに限らずインターネットの中に漂っていて、見なければいいじゃないと言って解決するわけでもない。たいしたことではないが、多少の不満感が生まれるのなら見なければいいという方向に舵を切ってしまった。

みんなで共有したいという思いより、自分一人で独占したいという欲が勝ってしまうのだ。

 

それと同じことは、例えば星座占いでも起こる。今の時期になると2023年の運勢があちらこちらから発表されている。〇〇座のあなたはこうで……運命数がなんとかのあなたはこうで……。ところで、同じ星座の人、運命数の人って日本に何人いるのだろう。いっぱいいるでしょ、そのいっぱいが「あなたにとっては冒険の年になります」とか、「停滞の最終年です、後半から躍進します」とか言われているわけでしょ。

やはりそこは「わたし」に向けられた言葉が欲しい。それならお金を出して占い師のところへ行くのが正しいのだろうが、ともかく、雑誌の占いをいまいち信じることができない。あんたそうやって、みんなに優しいこと言ってるんでしょ!とややこじれた恋人関係みたいな気持ちなる。

やはりこれも独占欲のせいだろうか。そんな気がする。占いで扱うのは運命と呼ばれるもので、それを十二等分にしてしまうのは納得がいかないし、私が喜んだ部分で日本の十二分の一に相当する人間がやはり同じように喜んでいるなんて、考えただけでくらくらする。それは嫉妬というのだろう。

ところで、自分以外の星座占いなんて読まないから、同じこと書かれていてもわからないよね

 

つまり、テレビ番組を見ながらハッシュタグをつけて感想をSNSにあげているあなたはとても寛容な心の持ち主です。2023年にはそこそこ大きなトラブルが待っていますが、周囲の人間の協力によりことなきを得るでしょう。

昔のM-1ってほぼクリスマスと被ってた記憶