8/27晴れ(暑い)、溶けた脳みそ

仕事終わり、バスの窓から見える対向車のヘッドライトが明るく感じられるようになった。いつの間にか、夜が長くなっている。

 

自分の頭で考えなさい、とよく言われる。

誰かに意見を求めることなく、まずは自分の力で解決にあたる、みたいなことである。ヒントをくれるような優しい人が、常に自分のそばにいるとは限らない。最後に頼りになるのは自分、だからこそ、自分で考える力を鍛えなければならない、という理屈はわかるし、まあそうだよねとも思う。ただ、問題にしたいのはそこではない。

自分の頭で考える、とはどういうことだろう。

 

少し話は変わって、私は「自分の頭で考えたことを整理するためのノート」というものが書けない。ノートという品物自体は好きで、あれだこれだと買い込むし、ビジネス向けのノートの書き方みたいなのも好きで、よく読んだり見たりする。仕事用ではなくても、例えばブログで書くことをまとめてみようとか、そういうことでもいい。

ノートを前にして、日常で感じた疑問とか、改めた方がいい課題などを見出しに書く。そこまではできる。なのに、その後が続かない。Aという課題に対して、現状は……、対策は……、と書き出してみるのだが、なんとなくいい案が思い浮かばずしっくりこない。今日は気分じゃないのかな、と投げ出す。気に食わなくて、中途半端に文字が並んだノートのページは破り捨てる。

完璧主義、みたいなところがあるのかもしれない。常に面白く、斬新な着眼点で問題に向かわなければいけない、みたいなプレッシャー。否定はしない。そうそう、自分の字が嫌いというのもある。ガタガタに並んだ自分の字を見て、やる気をなくす。

とにかく、そうやっていつまでもまっしろなノートを見ていると、私は何も考えていないのかなと悲しくなる。

 

SNSなどを見ていると、同世代くらいの人でも、時事問題にそれぞれ意見を持っていて、それは私には思いもつかないような内容ですごいなあと感じる。私が抱くような、例えば仕事上のトラブルとか悩みについても、うまく答えを出していておおっと思う。そういう意見を見て/聞いて思い浮かんだ私の「考え」は、果たして私が生み出したものなのか、あるいは誰かから教えてもらったものなのか。

しかし、様々な気づきから自分の考えを修正していくことで、「考え」は洗練されていくともいえる。それに、今の社会で他人の意見を完全にシャットアウトすることはできない。そんな状況で、何をもって「自分が考えた」と言えるのだろう。それは、誰かの答えを写しているだけかもしれないのに。真似とインスピレーションの線引き問題ともいえる。

ああ、自分の頭で考えるって、何なんだ。

 

なんだか最近、ブログに書くことがうまくまとまらなくて困っている。書きたいことはあるような気がするのだが、掬おうとすると水のように、砂のように隙間からこぼれていき後には何も残らない。そういうときもある、で済ませていいのだろうか。今は凪の状態で、また風が吹き始めれば、何か思うところが出てくるのだろうか。

特に何もない、ということは平穏無事に物事が進んでいる証拠なのだろう。しかし、そんなときに「何も考えていないのでは?」と感じてしまう私は、穏やかな日々に向いていないのかもしれない。