いつかがどこかにつながって、いてもいなくても

生まれて初めてライブという催しに行ってきました。

以下、ライブ最高〜!とかセトリ神!とかそういう音楽的な話は一切出てきません。

UNISON SQUARE GARDENというバンドです。みんな正面から写真を撮っていたので、私は斜め横からそっと撮りましたの図

 

ご時世的に会場は全席指定。こんな音楽ホールに来るのいつ以来だろうとわくわくしながら開演を待っていると、無情にも流れる「公演中は立っていいよ」のアナウンス。ふかふかな椅子なのに……。

感想としては、音が大きくて身体に響く!演出ぴかぴかしててかっこいい!と粒子の大きい感想しか思い浮かばない。特にも耳への違和感は翌日朝まで続いた。それから、公演中は(結局)立っていたのだが、多少動くにしても基本は「その場にとどまって立つ」わけで、それが学生だった頃の朝会ぽくて懐かしい気持ちになった。

ライブなんて自分には縁のないものだったけれど、チケット取ってお金払った数ヶ月前の自分は偉い!と思うくらいに楽しかったです。

 

それはそれとして。

このバンドを好きになったのがちょうど一年前くらいで、主に仕事面でしんどかったので元気になる曲をYoutubeで探していたのがきっかけだ。この「しんどさ」は後の退職という選択にもつながるので、まあまあ深刻なしんどさだった。

出会ったと言っても、視聴していたアニメの主題歌だった代表曲は知っている。それはもう10年は前のことだし、当時かっこいいとかすてきだと感じてもそれ以上深入りすることなく通り過ぎてしまった。そのアニメが終わるとともに、存在は記憶の彼方へ飛んでいく。

ふと、そういえばそんな曲もあったと思い出して、検索してみた。そうして、何の気なしにそのバンドの他の曲も聴いて、ついでにライブの映像なんかも見て、なんだかんだ今に至る。

興味をもったきっかけから逆算すれば、ライブに行っていない未来の方が「私」としては望ましかったのだろうか。少々、いやかなり屁理屈がすぎるけれど、その世界の私は何かを求めてYouTubeを開いたりしていないだろうから。……なんて考えたのは、「嫌なことや悲しいことがあっても、それがきっかけで新しい出会いがあって今は幸せです」的な結果オーライ説に、へそ曲がり者としては安易に賛同したくないからだ。

 

それはそれとして。

私が文章(ブログ)を書くという選択を、それは選択なんていうほど大げさなものではないのだが、したことで「ライブへ行く」という未来が生じた気もする。数年前、ブログを書いてみようとパソコンに向かった気まぐれを出発点に、この日のライブ会場へ辿り着いたのだ。

私にとって文章を書くという行為は、多かれ少なかれメッセージを伝えることである。ささやかな日常を書くことだって、こういう人間もいるんだよというメッセージだと考えているし、そう伝わればいいなと思う。そして、すごく偉そうだけれど、そういうメッセージ自体にあまり違いはないとも思っている。だいたいみんな同じようなことを考えたり感じたりしている、が、そのメッセージをどんな出来事と結びつけるか、あるいはどんな言葉で表現するか、という部分にその人らしさや面白さが出てくるのではないだろうか。

ということを、なんちゃってブログを書き始めてから気にするようになった。この人は、どんなことから何を思ったのだろう。そして、頭の中でもやもやしていることをどういう言葉で表現するのだろう。

 

もう一つ。私は文章を、余分なものを削って結論までを真っ直ぐに書こうとする。それだと味気ないので、あれを足したりこれを付けたりして逆にわかりにくくなったりするが、何も考えないと必要最低限の短い文章しか書かない。だからだろうか、関係ない話をして寄り道をしたり、わかりにくい言葉で立ち止まらせたりしてくる文章に憧れがある。この憧れも自分が文章を書くようになってから生まれた。

文章を書くようになって、今まで関心がなかった部分へ注目するようになった。私はこういう表現はしない、から「なぜこういう表現をするのだろう」「他にはどんなことを言うのだろう」みたいな好奇心が生まれたように思う。

私にはできない(しない)ことができる(する)人への関心は、そもそも私ができるかどうか、するかどうかをわかっていなければ生まれない。自分がどんな文章を書くのかわかったからこそ、好きになったり気になったりするようになったもの・人・こと、は結構存在している。

そういう、文章を書くことで生まれた関心がこのバンドの歌詞(よく考えたら何を言っているのかよくわからない系)に向かって、だから好きになったのではないだろうか。だろうか、と他人事なのは自分でも何に惹かれているのかよくわからないからで、ライブが始まった途端タオルで目を拭う人を見て、自分にはそんな熱量はないと改めて思った。好きという気持ちより、歌詞に対する「なんで?どうして?どういうこと?」と疑問の方が先行している。

 

そうして好奇心に突き動かされて、私はライブのチケットを申し込んだ。その好奇心は、元を辿れば文章を書くことにつながっているのだから、やっぱりあの日の気まぐれが始まりなのだ。もしかしたら、別の理由でライブに行くことがあったかもしれないが、私はこんなふうな関心からバンドを好きになることができてとても嬉しい。

いつかのささやかな決断が、どこかの未来に帰結する。だから人生はおもしろい!なんて言う気はさらさらないどころかそんなことは絶対に言わないし言いたくない。ただ、自分の選択から生まれた結果を逃さずに捕まえることができた気がして、そうであれば我ながらよくやっている。

 

それはそれとして。

ライブ会場のステージには、インターネット(最近はネット>テレビ)で見たり声を聴いたりしていた人たちがいて、本物だ〜という深みと語彙的に情けない感想を抱いた。それまで電波を介して知ってきた人間が目の前にいるという物理的な近さにびっくりして、そういえば、友達の友達の友達……を5人か6人繰り返せば世界中の人と知り合いになれるという話があったなと思い出した。

本当だろうか。本当だったところで、知り合いとはどの程度の親しさを指すのだろうか。ツイッター上の知り合いはカウントされるのだろうか。疑問は相当にあるけれど、もし本当だとしたら、画面の向こうで歌ったり踊ったり、おもしろい話をしたりスポーツをしたり難しい顔をしていたりするあの人たちとも、知り合いになれるというのか。

あくまで概念的な話だ。知り合いと言っても、直接会って「こんにちは、いい天気ですね」なんて話す間柄ではないだろう。そんなことは頭ではわかっているのだが、なんとなく希望をもってしまう。

案外、この世の中どうとでもなるのではないか。いつかの点から出発した線が今日につながっていて、それが思いもしなかった未来であるならば、例えば人とのつながりだって、思いもよらぬところでどこかの大統領につながる可能性もあるのではないか。あくまで、可能性、は。

だから、ままならないこともあるけれど、それはそれとして、何とでもなるのではないか。

 

という取りとめもないことを、ライブの前だったのか最中だったかはたまた帰り道か、あるいはもう全然関係ないタイミングだったのか、もはや覚えていませんが、とにかく考えたのでありました。