言葉に胃もたれ、文章は偏食

空を見上げると、雲の形が変わっている。弾力があり質量も重そうなかたまりから、ほうきではき残した砂になってしまった。天高く、馬よりは秋刀魚に肥えてほしい。

 

ある本を読んでいたら、「紙で読む文章と電子媒体で読む文章は伝わるメッセージが違う」旨のことが書かれていた。紙、は例えば本とか手紙とかチラシとか。対して、電子の方は電子書籍やメール、SNSもそうだろう。

言われてみればそうかもしれないが、考えたことがなかった。ここで言う「考えたことがなかった」は、思いつきもしなかったという意味ではなく、なんとなく感じ取ってはいたけれど腰を据えて考えたことはないくらいのニュアンス。こういう微妙な違いを、例えば対面で話せばもう少しスマートに伝えられるのに、と思ったところで、対面で伝えるかどうかも関係してくるぞと思いつく。

 

この文章はインターネットを介してスマホやパソコン等の画面で読まれているはずだし、私が他人のブログを読むときは、やっぱりインターネットに接続して、スマホタブレットを使う。そうしてブログを読んでいるときに、「ニンマリ」という言葉に出くわした。嬉しいことがあってニンマリしたそうである。

ニンマリ(にんまり)という表現が引っかかった。魚の骨がのどに刺さったようなそうでないような居心地の悪さがある。少し前までは、SNSなりブログなりで見かけてもなんとも思わなかったのに、その日は、そして今も変な感じが消えない。そうして今度はニコニコ(にこにこ)もダメになった。くすり、くすっ、は問題ない。

そういえば昨日はお月見だったけれど、「でけー」と呟こうとして、しかしSNSどころかスマホも触らずに終わった。年を取るとカルビが食べられなくなるそうだが、言葉にもあるのだろうか。

 

そういう表現に共通しているのは、私自身の解釈として、インターネット上で使うと映えるという点である。嬉しい、笑顔になった、ことをニンマリやニコニコと表現することで親しみやすさやわかりやすさ、共感のしやすさが上がる気がする。くだけた感じで相手が一気に身近になって……。こういう表現の方がいいよね、というノリの良さ。

好きでよく読む本、はエッセイにしろ小説にしろ昭和の時代を舞台にした作品が多い。携帯電話ではく黒電話、外出先では喫茶店で電話を借りるか、帰ってきてから伝言を聞く、そういう世界。現代の話を読んで、おもしろいと思うこともあるが繰り返し読むほどではない。少しばかり好みが古すぎて、生まれてくる時代が30年ずれているような気がする。

インターネットでよく使われる(と私が考えている)表現と自分が好きな表現とのずれが、いつの間にか許容範囲から外れてしまった。その違和感は大きく、冬に向けて毛が生え変わっているような気分だ。

紙で読む文章と電子媒体で読む文章は伝わるメッセージが違う。同じ文章でも伝わるニュアンスが変わるのであれば、違う表現をすれば同じことが伝わり、それぞれに得意なメッセージがある。例えば、紙媒体に求めた方がよいことを電子媒体に探してしまって、それでニンマリやニコニコやでけーに対し、少々混乱しているのかもしれない。ならば私は、微妙なニュアンスを読み取れる繊細さんであり、その些細な違いを無視できない融通きかないさんである。

食べ物の好き嫌いはあまりない方なのに。偏食も大概にしてほしい。