スタート地点に立てなくても休日は終わる

一生のうち、いや一年の間でもいい。やりたいことができた!充実していた!と言える休日はどれくらいあるだろうか。次の国勢調査でぜひ調べてほしい。

 

三連休だし映画かでも見て過ごすことにした。

映画というか映像作品全体にあまり興味がない人間なので、いざ映画やドラマを見ようと思っても何を見るかでつまずいてしまう。まずもって選べない。そして時間や話数を見てくじける。そうして、やっとの思いで ▶︎ 再生ボタン を押すけれど画面が動かない。モバイルルーターにデータ制限越えの表示が出ている。

 

例えばアマプラ おすすめ映画、でGoogle検索をかける。私のおすすめする映画57本とかなんとかが出てくるが、ところでおすすめってなんだ。自分がいいと思ったものを選りすぐって教えることが「おすすめ」ではなかっただろうか、こんなにあったらおすすめって言わないんじゃないのか、でもこの人が1000本以上の映画を見てるとすれば、50本といっても上位5%に属するから「おすすめ」か。

画像を眺めてもあらすじを読んでも、みんな同様に等しくおもしろそうであり、つまらなそうである。せっかくなら「見てよかった」と思える映画が見たい。おもしろい映画は見てよかったと素直に思えるが、つまらない映画だって話のネタになる。それならそれで見てよかったと言えるので、つまり何を見てもいいのではないか。ということでQ.E.D、とにかく黙って再生ボタンを押せ。

 

本を選ぶ嗅覚はまあまあ育っているけれど好みの映画を探す聴覚はまだまだ鈍いため、友人におすすめの映画を聞いたりする。本やテレビやラジオやその他諸々、誰かがいいよと言っていた作品もスマホにメモしておく。律儀なのでそうした作品はきちんと見ているのだが、ここだけの話、そこまでおもしろいとは思わない。

これは逆もそうで、私はすごくおもしろかった!好き!という作品も友人知人に刺さらないことは少なくはない。世の中の仕組みとして、他人が熱心に薦(勧)めるもので自分もすごくよいと思えるものはそうそうない、という法則がある気がするのでこれは仕方のないことだ。

これは否定的なニュアンスでなく、だからこそ自分:相手=100:100の好き!が見つかると楽しいよねということであり、人間関係の楽しさとはその探求過程にあると思っている。なんの話だ

 

こうして、何の映画を見ようと悩んでいるとき、林修氏の言葉を思い出す。著書に出ていたのだが、曰く「人におすすめを聞くな」。例えば、その人の普段の言動に注意していれば、ふとした拍子に出てくる「読んだ本の名前」を耳にしているはずである。どの本を読めばいいですか、なんて改めて聞く必要はないという趣旨である。

……と記憶していたけれどはっきりしないので、本棚を漁ってみたがその本が見当たらない。何かのタイミングで捨ててしまったか。読んだのは数年前なのだが、一行(あるいはそれに満たない一言)であってもこうして覚えている。

でも友人におすすめ聞いちゃってんな、と思っていたら2回目の三連休に入った。今のところ、映画は見ていない。