6/20晴れ、黒(白)は白(黒)に憧れる

私が初めてオセロゲームで遊んだのは幼稚園生のときである。同い年の従姉妹が入院して、お見舞いに行った際に遊び方を教えてもらった。

それから十年ほど後、ガラケーあたりにゲームとしてプリインストールされていて、暇な時間にぽちぽちやっていたらコンピュータのパターンを覚えてしまった。その程度にはよく遊んでいた。

 

もともと、私はネガティブな考え方をする。自分には能力がないと思っているのに加えて心配性でもあるから、点数が出るようなものであれば「だめだろうな……」と思うし、初めて挑戦することへも「だめだろうな……」とへっぴり腰だ。一つ不安なことがあると、考えうる限り最悪の結末を想像する。おそらく、第三者的にはとてつもなく滑稽な出来事でもそうなると思い込んでしまう。

緊張やプレッシャーに強くないというのもあるが、恥ずかしいことに、学生時代の期末テスト前はおおよそお腹が痛くなっていた。たかがテスト、と今ならば言えるが、当時の私のせまい世界では、テスト結果は大きな割合を占めていた。「点数が悪かったらどうしよう」どころか、0点かもしれない未来を描いてしまう。親は学業に放任的だったから、誰でもない「私」の性格なのだ。

幸いなことに、0点どころか赤点とも無縁の生活だったけれど。

 

心と頭は後ろ向きなのだが、口から出てくるのは脳天気としかいえない言葉だったりする。大丈夫でしょ、問題ないでしょ、なんとかなるでしょ。性格診断的なものを受けるとポジティブとか楽天的、なんて単語が出てくることもしばしばである。そのことを、私の中の矛盾なのかと思っていたのだが、私はやっぱりネガティブでだからこそポジティブな態度を取れるのだ。

ネガティブな言葉は嫌いだ。困った、大変だ、どうしよう、と言われるとこちらまで焦るし不安な気持ちになる。その、問題や心配事を抱えているがゆえのイライラを他人にぶつけてくる人間がいるが、そんなことをされた日には、あなたの大してシワもないつるつるな脳みそじゃそりゃ解決できないわな!とこちらまで不愉快になってしまう。いずれにせよ、気にしないということができない。影響を多分に受けてしまうから、嫌いだし苦手だ。

そういう人や言葉から離れようとして、明るくて前向きな言葉を自分はあえて使うのではないか、と最近気づいた。もともとが黒でも、白にはさまれば白くなれる。絶望的に心配性で未来に不安しかなくても、言葉だけでも希望がもてれば、いくらか気持ちが楽になる。

 

自分はアホなのかと思っていた。いつもヘラヘラして無責任なことばかり言って、わりと空気が読めていない。そんなこと言っている場合じゃないでしょ、なんて注意もたまーに受けたことがある。人間として大事なものが欠けていて、だからみんなが深刻な顔をしていてもにやにやしているのではないか、と本気で悩んでいた。

空気は読めないとか責任感がないとか何も考えていないとかアホだとかはその通りな気もする、が、それはそれとして、私なりに自身や周りの人を励ましていたのかもしれない。なんだ、意地らしいところがあるじゃないか。え、なに、そういう気の使い方できる人間だったの?

ネガティブだからこそポジティブになれる。人生における一つの真理に辿り着いたような発見だ。あれ、私ってもしかして賢い???とここで浮かれてしまうのだから、ネガティブなのかそもそも疑問だし、やっぱりアホなんじゃないだろうかと思う。