5/30晴れ、傾向と対策(そして諦め)

通院している心療内科でADHA傾向の話をする際、主治医は「高スペックだから基本何とかなるんだよね」「高スペックだもん」「高スペック」とやたら連呼する。特別な意味はないとわかっていても悪い気はしないよねデレデレ。

※困ることがあっても他の能力でカバーできる的な意味で、もちろん私は高スペックではないです

 

主治医からADHDの可能性を指摘されて半年が経つ。そのことについては家族と友人、それと口を滑らせて元上司にも話してしまった。

家族と言っても母親にしかはっきり伝えていないし、彼女の「アルファベットはわからない」という返答で会話終了。兄弟に匂わせをすると、彼はYouTubeを検索し、自称〇〇って胡散臭いよねという口に出すべきではない感想を述べてきた。父親はそっち系への偏見甚だしいので無視である。

数少ない友人にもちらっと(いや、わりとべらべら)伝えた。そうは見えないと言いながら、まあでもそうなんだーくらいに受け止めてくれたような気がする。無計画に話しておいてなんだが、深刻な顔をされなくてよかった。言わなきゃよかったと思ったのが上司で、ちょうど退職のための面談時にぽろっと言ってしまった。「失礼だけれど」の枕詞があればなんでも許される、わけがない。

発達障害とかうつとか、言葉はメジャーだけれどその意味や定義は人によりかなり違う。自分と相手の理解が一致しなければ時に傷つく/傷つけることになる、ということを学んだのでした。

そういう不一致や傷つけあいを乗り越えていくのがコミュニケーションだと思うのだが、当時の私にその余裕はなかったのが残念です

 

発達障害か元々の性質かわからないが、私の「ADHDぽい症状」には仕事に支障が出るものがある。その対策ができるところ(以下ぼかしあり)に通っており、もうじきプログラムが終わる。結果として、対策したかった部分へのずばり明確な対処方法は見つけられなかったが、それとは別に自分のできる/できないがはっきりしてよかったと感じる。

例えば講義中、私はほぼほぼ関係のないことを考えている。で、合間に意見を求められたり作業をしたりするものだから、話を聞いていない私は慌てて資料を見つつ周りをうかがいつつ、現在位置を探す。文章を指でなぞりながら聞いていると迷子にならずに済むが、そうしないと話を聞けないということでもある。

そのことを受診時に話したら、ADHDだという人の中には話を聞いていない人がいて、こうして一対一で話していても夕飯のこととか考えている方もいるんですよ、と聞かされた。その瞬間、帰りに駅ビルでカツ丼&小そばセットを食べようと考えていたことはあえて言う必要がないだろう。つまりそういうこと。

 

できないと思っていたらできたこともある。作業時間を見積もって予定を立てる、という方法に苦手意識があり、仕事は「これが終わるまで帰らない」的方針だった。もちろん、仕事の内容によってどちらがよいかは変わるけれど、私の場合はその偏りが甚だしい。

時間内に課題をこなす、という時間の使い方や優先順位に関する演習がある。最初に計画を立てるのだけれど、作業時間の見積もりと実際の作業時間がほぼ一致した、つまり想定通りにこなせたのだ。課題は以前取り組んだことがあり、そのときの記憶から計算したのだが、「やればできる」の言葉を久しぶりに思い出した。

なんてことないかもしれないけれど、できないと思っていたことができれば自信につながり、あれも試してみようと次につながる。自分のできる/できないを知ること、そしてできない→できるへの変換方法を考えることは大事です、とここで言うのは簡単だが、生活なり仕事なりをしながらやるのは大変である。だから、試行錯誤しながら自分のやり方を見つけ出せる人はすごい(小学生的感想)。

 

そんな感じで、せっかく時間もあることだし、自分の厄介な性質と向き合いつつもう少し楽に生きられるようになりたい。多かれ少なかれ、生きにくさを感じる瞬間は誰にでもあるはずで、じゃあその問題をどうするのかというのは結局自分なのだろう。生きにくさや生きづらさ、という言葉は抽象的であまり好きではないけれど。

とはいえ、頑張ればできるというのも傲慢で、人によってできる/できないの偏りがあることを忘れてはいけない。