4/30晴れ、何回目のさくら

桜は年に1回、春の季節にしか咲かないので、生涯を通してもそれほど見る回数が多いわけではないという文章を最近どこかで見た気がする。

 

言われてみればそうだ。

20年生きていれば20回ほど桜の季節を経験することになるが、その数のわりに「さくら」の印象は強くはないだろうか。「ひまわり」や「いちょう」よりも、その季節が来ることを人々は待ち望んでいる気がするし、実際、その時期が訪れてみればテレビは毎日毎日毎日、桜の話題で持ちきりだ。

暖かくなれば開花が早まることにうきうきして、雨が降れば花が散ることを悲しむ。いつまで花はもつだろうか、別れの日や出会いの日に、あるいは今週末の休みまでに。とにかく、私たちは「さくら」に振り回されている。

世の中には年に2回咲く桜というものがあるそうだし(参考文献『金田一少年の事件簿』)、桜の季節に南から北へ移動することがあれば、タイミングによっては桜を2回見ることができる。……という面倒な話は置いておく。

 

年に1度しかないもののオリンピック代表である誕生日を、先日迎えた。自分の年齢もだんだんわからなくなってくる、のは、単純に数字が大きくて扱いにくいだけだと信じたい。私は数字が苦手なのだ。

身体や精神が成長する時期はとっくに脱している。つまりもう若くはないのだけれど、自分より年齢を重ねている方からすればいくらかは若いわけで、自ら若いとか老いたとかいう言葉は出さないのがスマートだと思うようになった。子どもとか大人とか、おじさんとかおばさんとか、そんなに分けずとも皆等しく「人間」でいいではないか。

それは、自分の年齢なら多くの人がするであろうことを、例えば結婚やら出産やら出世やらなんやらを、ほぼほぼクリアせず生きていることへの言い訳かもしれない。税金はきちんと納めているのだから放っておいてくれ。

 

せっかくの誕生日なので、おいしいお菓子でも買ってこようとぷらぷら出かけた。

気に入っている菓子店があり、そこを目的地にしたのだが、開店から数十分で田舎には珍しい大行列ができていた。小さいお店だし入店人数を制限しているので、1人2人並んでいることはあったのだが、10人は軽く超えている、ような。

繰り返しになるが、大きいお店ではないのでしばらくすれば解消するだろう、と私は歩いてきた道を戻り、喫茶店で時間をつぶすことにした。そのお店は、空いている客席でコーヒー豆をはじく作業をしており、その音と、焙煎機の音とが店に充満している。席に座っている客は私だけだったが、コーヒー豆を求めてぽつぽつ来店者があった。店内を満たす音も、人が来るリズムも、心地よい。

しばらく休んで、先ほどの焼き菓子店を再び訪ねる。が、なんということだろうか、店内はすっからかん、最後の客であろう人間が、私の前を歩いていく。白い壁、片付けられるトレー、空っぽのテーブルとショーケースが、外からもよく見える。

ないと余計に食べたくなる。前を歩く人間は、その右手にお菓子が入っているだろう袋をぶら下げ、大きく腕を振っている。悔しくて、追い越してやろうと思ったけれどなかなかにスピードが速くて、それが余計に子憎たらしい。その袋の中の焼き菓子は、いつ、どこで、誰に食べられてしまうのだろうか。

ただ確かなのは、食べるのは私ではないということだけである(そして、ちゃっかりブログのネタにした)。

 

私はこれから何回あの喫茶店を訪ね、この焼き菓子店に来るのだろうか。別に人生を憂えているというか悲観しているというか、そういうことではない。ただの疑問だ。

どこに行き、誰と出会い、何をするのだろう。ふらふらと何回目かの誕生日にたどり着いた私は、これから何度あるかわからない誕生日に思いを馳せ、その見当のつかなさにただめまいがするばかりだ。

花にまつわる企画展をしていた雑貨店にて、形や色を一つずつ見比べて選び出したMy  Bestな一品。