12/25クリスマス、読書コンプレックス

暇があると字を追っている。入浴中、すでに何度も読んだシャンプーボトル裏の説明にまた目を通す。バスの車内に掲示された、私は使わないであろう路線の時刻変更に関するお知らせを見つめる。ペン売り場に設置された試し書き用の紙の、あいうえおや日付や挨拶をじっと眺める。

 

字を追うこと、言葉を認識し文章を理解する「読む」という行為に苦手意識はない。しかし、読む対象が本になってくると、話は変わる。読書はしない方ではないが、する方だとも胸を張って言えない。そのラインがどこにあるのかなんて知らないが、上は見れば見るほど高くなっていく。

職業柄、本をよく読む人がいる。例えば、私の友人に国語教師がいる。彼女の家にお邪魔したとき、洗面台と洗濯機が置かれた脱衣所にまで文庫本が何冊か置いてあって驚いた。ちょっとした隙間時間にも手を伸ばすらしい。歯磨きをしたり髪を乾かしながら読むのだろうか。洗濯を待つ間、というのはわかる気もするが、やはり用事が終わってからゆっくり読めばいいように思う。

とはいえ、家のあちこちに本があるという姿に憧れて真似したところ、踏んだり蹴ったりして邪魔なので片付けたのは内緒の話だ。教科書だけでなく、小論文の指導で必要な読書もある。純粋に、その量と幅の広さをすごいと感じた。

 

量だけでなく、読書の深さというのもあるだろう。SNSで年間読書量〇〇冊なんて見かけると、単純にどうやって読む時間を確保しているのかが気になる。1日あたり1冊以上読まないと間に合わない人もいて、読むのはやいなとのんきに思う。そんなスピードで読んで、内容は頭に入っているのだろうか。他人の心配をしている場合ではないのだが。

要点をまとめる読書ノートを試したことがあるけれど、時間がかかるわりに内容が定着しなかったのでやめてしまった。内容を覚えたり後で見返す用に便利だと思うけれど、書いたり飾ったりすることに集中して、いまいち目的がずれてしまう。気になった部分はページの隅を折っておく程度にとどめておくのが、私には合っている。

しばらくして、またその本を手に取り読んでいると、折られたページに差しかかる。なるほど、いいところに目をつけているなと自画自賛しているのはつまり、マークした部分がすっかり頭から抜けているということだ。合っている、なんて先ほど書いたけれど機能はしていない。

こんな調子だから、読書と言われると身構えてしまう。全く読まないわけではないけれど、馴染みのカテゴリから知っている人の作品を何冊か、となるとせまくて浅いプールで足をバタバタさせている感じだ。私の読書はお遊戯だなと思う。

 

もっとも身近で読書をしているのは母である。しているというかしていたというか、日本の近代文学のほか、「人が殺されるのが好き」という理由で、ミステリ小説にも詳しい。そんな母を見習い、学生時代に図書館で芥川龍之介の本を手に取ったが、芋粥ってそんなにおいしいのかという感想を抱いた後に夢の世界へと飛び立った。再チャレンジを試みるも、まぶたが重くなるので諦めた。

歴史にも詳しいので、どうやってそんなに覚えたのと聞くと「適当」と返ってきた。母は茶道や華道を習っていたり、簿記の資格を持っていたりする。そういうのを教えてと聞くとやはり「適当」と返ってくる。

読書に対して、少し身構えすぎたというか効果とか目的を意識しすぎているのかもしれない。たくさん読まなきゃ、知識を覚えなきゃ、理解を深めなきゃ、というプレッシャーから少し離れよう、そう思って♯読了から遠ざかることにした。