死なない限り、仕事は続くよしばらくは

(ドラマのタイトルみたいになっちゃった)

新しい部屋、上の住人が夜中に奇声を発しながらたまに暴れている。どかんどかん音が響く。やばいよやばいよ!

 

タイトルについて、生きている以上はお金が必要なので、死なない限りは何かしら働かないといけないよねという話。いろいろな事情で働けない/働かないこともあるだろうけれど、特に何もない私はとりあえず仕事をしてお金を稼いでいる。

お金があれば働かなくていいのかという問題について、結局は世間体や「社会に必要とされたい」精神から仕事に就くようだ、と何かで読んだ。働くことから逃げるのはなかなか難しいらしい。ということで、頑張って働きましょう。おわり。

 

 

なんのために働くのか。そんなことをまじめに考えるようになった。

自分(たち)が提供するもの(サービス)を受け取る人がいて、それが社会の役に立つというのは大前提で、もっと細かく、私自身が働く意味とは具体的に何なのか、どういう行為を通してどういう社会にするために働きかけたいのか、あるいはお金を稼ぐ以上の意味を求めないのか。その答えが見えたようなそうでもないような気がするので、とりあえず書いてみる。

 

仕事について深く考えるようになったのは最近だけれど、きっかけは労働過多の生活を送ったことだ。初任地は、ぶっちゃけぬるま湯につかったような楽な職場だったので、この生活が続くのかなと思っていた矢先、異動によりとんでもない仕事量を任され、気づけばつぶれていた。

変な話ではあるが、仕事量が多いことをつらいと思ったことはないし、むしろ、当時の職場は好きだった、というか今も好きだ。自分の能力をフルに使って仕事をする、というのは個人的にはとても楽しかった。問題は、それでも仕事が片付かなくて、あーもう無理無理無理と諦めてしまったことだ。そうやって仕事を残してしまって、それはだめだろと怒られたのが去年(というかこの間の3月まで)の話。いろいろな人に迷惑をかけてしまった。

またまた変な話だが、当時の職場は楽しかったけれど、同じくらい、この世からいなくなりたいという思いも強かった気がする。夜、布団の中で目を閉じて、明日の朝に死んでないかなーと願いつつ、きちんと目が覚めてがっかりするという生活をしばらく送っていた。もう私には無理なのであとは私抜きで皆さんでやってください、という意味でとにかくいなくなりたい。その方法は、例えば宇宙人にさらわれるとか何でもいいんだけれど、現実的に思いつくのは「死ぬ」ことだけだったので、そんな風に願っていたのだ。自分から辞める度胸はなかった。

なので、私がつぶれた原因は、忙しいというのもあるのだが、その根っこをたどれば、「私には無理」だと自己否定を続けながら働いていたからだと思っている。私には無理、から次第に「私はダメな人間なんだ」と否定を続け、やることなすことすべてに不安がつきまとうようになった。すべてが不安、というのは結構しんどくて、常にびくびくしなければならない。そういう自分の状況をなんとかしなきゃ、というやる気や活力も残っていないので、すべてが面倒になって安直に死を願う。

やばい、ひたすらに暗い。

話は変わって、さっきも少し書いたように、私は仕事をきちんとこなさずに残してしまい、そのことでいろいろ怒られた。残した仕事は別の人が片付けて、私自身は怒られてこの件は終わり。優しいことに、周りの人はさっさと忘れろと言ってくれる(もちろん、本心はどう思っているかなんてわからないけれど、私はこの言葉をそのまま受け取っている)。

まさか、忘れられるわけがない。

いろいろな意味で忘れられないのだが、一番強いのは、私自身が、なんでこういうことになったのか、どうすればよかったのかいまだに答えが出せていないからだ。周りに相談すればよかったんじゃない?というかそうすべきだったんだけれど、状況的にそれができなかった。そのことも含めて私の認識が甘かった、というのもその通りなんだけれど、そんな、「次は頑張りましょう」みたいな答えじゃ意味がない。

それは、組織としての仕組みの問題でもある。実際、同じようなことは社内で数年に一回起きている(ように感じる)。私の意識や能力に問題があったというのは300%承知の上で、そのときの反省が生かされずまた起こる(起こっている)のであれば、それは本人の問題だけでなく業務フローにも欠陥があるということだろう。じゃあ次が起きないようにどこをどう直したらいいんだということが、私にはまだ解決できない。

なにより、再び同じことが起きたら、問題解決にあたってくれた人たちの努力が無駄になっちゃうだろ、とも思う。

 

職場が変われば人も変わる。とある上司はよく笑う人だった。誰かが謝れば笑って許し、自分が間違えば笑って謝る。困ったことがあれば「どうしよう!」と笑顔で声を上げる。当時の私の近くに、こんな人がいたならばと思う。なになに、どうしたのー?そう言ってもらえたなら、もしかしたら、と考えてしまう。

自分を否定しながら働いた意味とは、無理だと諦めず仕事に向き合うために必要だったものは、何なのか。当時の私に何を伝えれば、同じ未来を回避できるのか。そんな簡単に答えは出ないけれど、とりあえず今は、笑って仕事をする人を目指したい。私と同じような思いをする人がいなくなるように、「あの頃の私に必要だった人」自身に、私がなりたいと思えるようになった。まずはそこから。

私が働く意味とは、そこに辿り着く気がする。もともと、とある業界でもの(サービス)を提供する方々の労働環境を良くしたくて、今のバックオフィス職を目指したのだ。自分のつらさや苦しさをほかの人が感じないようにしたい、と言ったらカッコつけすぎだろうか。すみません、ちょっと酔っぱらっているもので、でもそうなんだろうな。少なくとも、自分が困った部分は潰していけるように、仕事に取り組みたい。

なんだかんだ、もう中堅だもの、それくらい大人ぶったっていい年頃でしょう。それに私、牡羊座でB型なんですよ。深く考えない猪突猛進型で細かいことは気にしない性格なので、気に入らないことはふっ飛ばすことにします、ゆとり世代だし。

くよくよしているように見えるけれど、だいたいのことは寝たら忘れるんですよ。寝つきめちゃくちゃいいし。

 

 

なんとなく、自分は近いうちに死ぬんじゃないかなあと思っていた。自分はダメだという否定感と仕事を諦めてしまった罪悪感から、自分は生きていていいのかとその存在を疑っていたし、未来に対して希望を持てなかったし、なにより生きようという欲がなかった。自分で死を選ぶということではなく、生きようとしないなら死ぬんじゃないかという理論。

死ぬつもりがなくても、その時は突然やってくる。生きようと明確な意思がなくても、死なない限り人生は続く。生活する以上、お金が必要なので働かなければならない。

 仕事のために生きる人もいるけれど、私は、基本は生きるために仕事をしている派だ。そういう人が、仕事で擦り切れて生きることに支障をきたしたら大変というか、本末転倒だ。残念なことに、仕事で疲れ切ってしまった人が知人の中からポツポツ出てきて、ちょっとショックだったりもする。そして、私の休職もそうだけれど、なぜそこに至ったのかはよく検証されない(気がする、人事でどういうことになっているかは知らないけれど)。

なので、休職を経験してしまった私は、同じような思いをする労働環境を生まない努力をしたいと思うのだ。そのために、しばらく今の会社で頑張って働きます。