12/10くもり時々晴れ、「生きてますか」と叫びたい

帰り道、コンビニによって豪遊したらお会計が1,200円ぴったんこだった。仕事中に食べるお菓子なんだけれど、クリスマス仕様?の大きい袋入りチョコが売っていて、それを買ってしまった。

数種類入っているうち、好きなフレーバーは我慢できず一気食いしました。

 

どうしたんだろう、かつてお世話になった人がばったばったと倒れていく。連絡が来た時には、もう会えなくなってしまった人もいる。みんな、働き過ぎなのよ。

なので、元気なうちにいろいろお話しをしておきたい。そんなこといくらやっても悔いは残るのだろうけどけれど、とにかく誰でも、みんなに会いたいという思いが強くなってきている。私もあなたも、いつ、何が起こるかわからないから。

友人だったら問題なく会える。多少時間とお金を工面すれば、気軽に会おう!と言える。問題は、友人ではない人たちだ。

知人、というと遠く聞こえてしまうが、年齢的なことや社会的な立場から、あるいは実際の間柄を考慮して、友人と呼ぶのは違う人たちがいる。職場の先輩とか上司とか、かつて何かを教わった人とか。なんて呼んだらいいかわからないけれど、大好きな人たち。会いましょう、の一言が簡単に伝えられない。

 

昨日、とある人に電話をした。かつてお世話になった上司で、親子ほど年が離れている、おじさん。ブログにも過去に登場している、おじさん。毎日顔を合わせ、「いつかぶっとばす」と言わせたほど無礼を働いたけれど、そんな簡単に「会いましょう!」とは言えない。なので、適当に理由をつけてたまに、ごくたまに電話をする。

それは本当に助言を求めての行為であり、まだ生きているかの確認でもある。もう会うことはないとわかっているからこそ、知らないところで死んでほしくない、という不安感。

以前、半年くらい前だったか、転職するかどうかの相談を電話でした。結局、転職はしないのでその報告をしようそうしよう、と自分をむりやり納得させて、ケータイを握りしめて十数分。やっと、電話をした。

 

長くないならいいよ、と忙しそうだったので、簡単に報告だけして、最近の話をして5分ほどで電話を切った。よかった、生きていた。元気かどうかはわからないけれど、生きていてくれれば、また会えるかもしれないと希望は残る。可能性はとてつもなく低いけれど。

本当はたくさん話がしたい。おでんだか焼肉だか何だかに連れて行ってくれるという、かつてしたような気がする約束を守ってもらいたい。でも、もはやそういう関係ではないのだ。おじさんには、私に関わる理由がない。だからせめて、私からの連絡は、生きているかの確認だけはさせてほしい。本当は切れてしまっている糸を、むりやり掴んでいるような気分だ。

 

切ってしまいたい糸もある。ほぼ逃げるように異動した、前職場。もう知らない顔をしたい、というか、合わせる顔がないくらいぐちゃぐちゃにしてきてしまった。でも、休職した時に連絡をくれたのは、その職場の人たちだった。この糸の先にいる人たちは、まだ私を受け入れてくれるのだろうか。

逃げよう、と決めたけれど、やっぱりそうはいかないかな。休職したことを知っているなら、元気になったならあいさつに行くのが礼儀だろう。そう思うくらい、親しい人たちだから。

 

おこがましいかもしれないけれど、私の好きな人たちが、どうか今日も明日も明後日も元気でいてくれと、そんなことばかり考えてしまうのである。