歩け歩け歩け

徒歩という移動手段がわりと好きだ。

歩いているときに考えることは、じっとしているときに比べて随分とポジティブな気がする。自転車だと攻撃的になりすぎる。免許を持っていないのでわからないが、自動車だとどうなのだろう。臆病な私の場合、事故をおこさないよう考え事どころではないかもしれない。

 

 ゆっくり歩けばいろいろなことに気づく。コスモスが咲いてるなあとかトンボが飛んでるなあとか暑いなあ涼しいなあ寒いなあとか。ゆっくりだから、自転車や自動車ではすっ飛ばしてしまうところに気がつきやすい。

あと、歩いていると地球が丸いことを意識できる。嘘だと思うだろう、でも感じてみてほしい。歩いているときに足の裏に注意を向けると、なんだか、うっすら球体の上を歩いている気がしてくる。気がしてくる、なんて言っている時点で錯覚なのだが、足の裏に集中する行為については一度試してみてほしい。確かに地球に生きているのだとわかるはずだ。

 

速く歩けば、強くなったような気分になれる。今の私は誰にも負けない、何でも来いという無敵感。もちろん、そんな自信も根拠もどこにもないのだが、自分で自分を動かしているという支配感が、私を強く思わせているのかもしれない。この体は、思い通りに動かせるんだぞ。

勢いづくと、だんだん走りたくなる。この体はどこまで動かせるんだろう、思いっきり、限界まで動かしてみたいという欲求が湧いてくる。走り出せば、案外走ることができる。まあ、だんだん苦しくなるのだが、本当につらいのは走るのを止めた時だ。心臓がばくばく、息ははあはあ、血管がどくどくと鳴り、足ががくがくである。意外に難しいのが腕の振り方で、こちらは走っている最中にもげそうになる。

昼間に全力疾走は恥ずかしいだろうから、夜、コンビニの帰りにでもやってみてほしい。私は昼でもたまにやる。

 

逆に、周りに注意を払わない場合もある。そんな時、私はよく空想の世界をさまよっている。だいたい、小説や漫画の続きはどんなだろうとかこんな展開だったらどうだろうとか、自分で創作することが多い。現実的な、何を食べようとか何を買おうという話は、歩いているときはあまり考えないし、逆に、歩いているとき以外ではあまり空想しない。

一定のリズムで歩く、という行為は集中しやすいのではないだろうか。確か、林修先生もそんなことを言っていた気がする。林先生の場合はそんな空想などではなく、もっと難しい考え事かもしれないが、とにかく、リズミカルな振動と心地よい靴音は心をリラックスさせ、考えを深いところまで運んでくれる。そんなことをやっていると、楽しくなってくる。

 

歩くという行為は、私に前を向かせてくれる。

 

 

どうも最近、落ち着かない。何が気に食わないのかわからなくていろいろぐるぐる考えて、いつか書いたみたいに元気になってみたりやっぱりだめだと落ち込んでみたりする。それで、あーもう考えるのはいやだと全て投げ出したくなり、でもまだまだ人生続くんだよなと堅実に考える。あっちに行ったりこっちに行ったり忙しい。

考えがまとまらないときは外を歩くようにしている。理由は上記の通り前向きにさせてくれるからであり、それはつまり別のことを考えるよう、強制的に切り替えてくれるのだ。

誰かにすべて話してしまいたい。そして答えを教えてもらいたい。そう思う一方で、やっぱりこのもやもやは、自分で考えるしかないのだとわかっている。それは仕事のことであり私生活のことであり、つまりはどう生きてどう死にたいかということなのだ。

今日も歩こう。どこをどうということではなく、とにかく歩こう。今はがむしゃらに歩いて歩いて、そして疲れてぐっすり寝たい、そんな気分だ。