そんなはずない、こともないのではないか

先日、十和田市現代美術館に行ってきました。

そこで出会った(正確には、一度会っているので再会した)〈スタンディング・ウーマン〉という作品を中心に、少し掘り下げたいと思います。

何度も使いまわしている写真

 

こちらの女性、美術館の作品解説シートによると身長が4m近くあるそうです。2mの女性なんてそうそういませんから、一般的な女性の身長の、2倍以上の大きさと言って構わないでしょう。写真じゃわかりにくいんですけど、この部屋に入ると正直ちょっと怖いです。巨人がいる、みたいな。食べられちゃう。

高校の美術の先生が言っていたんですが、やっぱり実物大に描くことが一番受け入れられやすいんだそうです。逆に言えば、観る人にちょっと「ん?」と思ってもらうには、実際より大きくしたり小さくしたりすればいいわけです。作者がそれを狙っているのかはわかりませんが、やっぱりこれくらい大きい人を見れば、ん?どころかおおお??と感じます。

説明もしやすいです。「十和田にでかい女がいた」、聞いた人は意味がわからないと思いますが、そのとおりです。わかりやすくて、記憶に残りやすい。大きいことはいいことですね。

 

何歳くらいなんでしょうね。私は人の年齢を当てるのが得意ではありませんし、皆さんも、写真ではわかりにくいと思います。若くない、おばちゃん?それともおばあちゃん?って感じでしょうか。失礼ながら、お胸も垂れているようですし、体形もこう張りがないというか……。でもね、手はそんなにしわしわではないので、そこまで高齢ではないと思うんです。まあ、お顔はしわが深いですが、日本人からすれば西洋人は老けて見えるものだ。

ちなみに、結婚されているようです。左手の薬指に指輪をはめていました。その指輪が、私たちの一般常識と同じ意味を持っていれば、ですけどね。だってどんな文化の人かわからないし。

 

黒い服を着ているから、喪服かよって思ったんですけど、あまり関係ないですかね。ていうか、黒い服=喪服って思われたら、ちょっとショックです。私のお気に入りの服、黒なんですよ。

それは置いておいて。

この靴下に革靴、私は好きな組み合わせです。ヨーロッパあたりの、ちょっとクラシカルなお堅い服を着た女の子とかがやってると、もうたまらないです。素敵!

髪の毛をお団子にして、顔を右下に向けて、しかめっ面ってわけじゃないんですが無表情でもないし、ちょっとだけ怖い顔をしている気がする。よく見ると、体のわりに頭が大きいかも。もともとのモデル(がいれば、ですが)が背の低い方なのかな。

 

髪の毛の一本一本、顔のしわ、皮膚の下の透けている血管、肌の質感にこの佇まい、作りものだとわかっていても、本当に心臓が動いて呼吸している女性が、こんなにも大きい人間がそこにいるんじゃないかと錯覚します。こればっかりは、どんなに正確な写真や映像でも伝わらない、その場の臨場感のように思います。

 

作り物と本物の境目はどこにあるのか。

もちろん、理論的(倫理的に、は知りません)には、生命がないという点で、どんなに外観が似ていても違うものです。ですが、感覚的にはその境目がわからなくなります。この人なんで動かないの?あ、作り物なのか、でも動きそう、実は動くんじゃない?あれ、今動いた?生命がありそう、という錯覚です。

境目。皆さんは普段意識していますか?

自分と他人。ネットと現実。今までとこれから。境目を失くせば受け入れられるものも多いし、でも境目があるからこそ守れるものもある。そのバランスが崩れたり、極端に固執してしまったりすれば、何かしら問題が発生するのだと思います。いろいろな情報を受け入れ、そしてその情報から身を守らなければならない現代人は、そのバランス感覚が鈍くなっているのかもしれない。

そんなときに、ちょっと変な感覚、これってAなのにBにしか思えない、という体験をすれば、ちょっと緊張状態が和らぐ、こともないのではないか。情報をそのまま受け取るのではなく、わざと錯覚していつもと違う感覚を味わう。頭の体操をして、少しゆっくりませんか、そんな感じ。

 

またまた話が変な方向に転がりました。

十和田市現代美術館では、いつも使わない感覚、暗いところを手探りで進むとか、テーブルに上がって天井を覗くとか、こんなところにいたんだと見つけるとか、そういう体験ができます。もし近くに行く機会がありましたら、ぜひ寄ってみてください。そして、私は今、何を考えた/感じたのか、立ち止まってみてください。

いつもと違うものを見て、少し違うことを考える/感じる、というのがいいと思うのです。

 

長くなりましたので、今回はそんな感じです。