悲しみでもなく怒りでもなく 『この世界の片隅に』

Amazonプライムビデオにあったので視聴しました。4日の夜から5日にかけて、129分。

この世界の片隅に

この世界の片隅に

 

戦争を題材に扱った作品、『火垂るの墓』とか『はだしのゲン』とか、あと海外ものいくつかぐらいしか知りませんが、そういう作品とはまた違った戦争の側面を淡々と描き出しています。

 

映画の内容に触れますので、まだ見ていない方はご注意ください。

 

 

私が印象的だったのは、1945年8月15日の玉音放送終了後、主人公であるすずが声を荒げる場面です。

この日に至るまでにすずは目の前で姪の晴美を亡くし、同時に自身の右手も失っています。姪を守れず自分が生き残ったこと、右手を失ったことで大好きな絵が描けなくなったことは、彼女を苦しめました。また、物資が不足していたため日々の食事にも我慢を強いられ、空襲から逃れるために朝夜関係なく防空壕に逃げる、窮屈な生活を送っていました。

 

玉音放送が終わった後、すずは立ち上がります。(どんな状況になろうと)覚悟の上ではなかったのか、最後の一人まで戦うのではなかったか。自分にはまだ左手が、両足が残っている。

場面は変わり、乱暴に井戸から水を汲み上げ、畑に運ぶすずの姿が映ります。普段穏やかな彼女のその様子は、内面から何かが溢れるようでした。娘である晴美を亡くした義姉が泣き崩れている。玉音放送を聞き終わったときはひょうひょうとしていたのに。すずから湧き出た思いは、外側へ一気に流れ出ていきます。

 

飛び去って行く

うちらのこれまでが

それでいいと思ってきたものが

だから我慢しようと思ってきたその理由が

すずの独白。聞き取りだから違っているかも

 

戦争だから我慢しよう、仕方ないんだ。しかし、その生活の根っこにあったものが一気に引き抜かれてしまった。それは、今まで信じていたものがひっくり返されることを意味します。これからは、何を支えとして生きていけばいいのでしょう。仕方ないと押し込めていた悲しみや怒りや苦しみは、どこにぶつければいいのでしょう。そこにあるのはやりきれなさ、切なさです。

劇中では「悲しくてやりきれない」が使われています

 

戦争は本当に理不尽です。

大事な人を奪っていく。大切な場所を燃やし破壊してしまう。楽しさ、嬉しさを奪っていきネガティブな感情ばかりを置いていきます。戦争だから我慢できる、耐えられるというのなら、戦争が終わってしまったらどうするのでしょうか。もしかしたら、その支えを失うのが怖くて、一度始まった争いは加速してくのかもしれません。

 

戦争は悲しみや怒りだけでなく、本当にいろいろな感情を生み出すのだなと感じました。そんな思いを抱きながらも、新しい時代を築いてきた先人にはただただ頭が下がるばかりです。