5月11日晴れ

職場で暖房が完全に使われなくなったので、逆に寒い。寒気?悪寒??
すいません早退しまーす。
とはいかなかったけれど、適当に見切りをつけてどこかで半休を取りたい。じゃないと自爆しそう。

スーパーで298円だった芙蓉が開いてきた。いかにもアオイ科ですよという芙蓉ではなく、花びらがほわほわに連なった花で、調べてみたら酔芙蓉と言うそうだ。写真に撮ってこの記事に載せようと試したけれど、白飛びしてしまってだめだった。食べたらシャクシャクして、口の中で溶けてしまいそうなはかなげな感じがとてもいい。綿菓子というほど柔らかくはないけれど、そう、だからメレンゲくらいがちょうどいいのではないだろうか。
芙蓉と言えば日本画でよく使われる題材だ。描きたくなる気持ちわかるなあ。花を見て感じた美しいという気持ちやふわふわの花びらの質感を、うまく紙の上に表現できたならばそれはさぞかし楽しいでしょう。真っ白ではなくうっすら色がついていて、中心の花びらは赤い縁取られている様子も、その微妙な加減をどうするかと考えただけでわくわくする。
と、偉そうに申しましたが、実際に私が描くことはない。頭の中だけで「描いたふり」をするだけで十分だ(道具も場所もいらないので、脳内お絵かきはおすすめです)。

周りがマスクを手作りしている中、作ろうと思うどころか、「そこまでしてマスクいらねえし……」と面倒くさがっている自分に気づいた。昔はあんなに手で何かを作ることが好きで何時間も何日も時間を費やしたのに、今や、安いDIYに時間を取られるならお金払って既製品でいいや、と思っている。というかそうしている。金の魔力が私を変えたのだろうか。
作ることがすべて嫌になったかと言えばそうではない。例えば、お料理は大好きだ。切ったり焼いたり煮たりチンしたり、別に苦にならない。と、考えたところで、私は長期間残るものを作るのが面倒なんじゃないかと気づいた。お料理は作ったらそのまま残らないけれども、絵とか家具とか、そう簡単には消えない。自分が作った、おそらく不格好になるであろう作品を見るのが億劫なのだ。

私が幼稚園児の時に熱中した油粘土、作っていたのはいつも怪獣だった。幼稚園で配られた教材の絵本に怪獣の作り方が載っていて、それを真似して作ったのだ。終わったら壊して箱に戻し、また次の日、怪獣を作る。お手本のようにうまく作れなくて、悔しくて泣いたのを覚えている。それはともかく、私にとって「作る」行為の原体験はここにあるのではないか。できたものが壊れて箱に戻されようとそんなの関係ねえ、作る過程が大事なんだと背中で語る幼稚園児。オッパッピー。
そのときすでに諸行無常もののあはれを理解していたかどうかと言えば絶対にそんなことはないのだが、なのでたぶん、落書きをすることはあっても、長期的に残るような、作品として絵を描くことはないんだろうな。そう思うとすこしさみしい。

チベット仏教の砂絵に興味が出てきた。