やめたいやめられないでも辞めたい

次を決めないまま仕事を辞めてしまいました。ニュースに出るようなことがあれば「無職」と表示される身分ではありますが、ポッドキャスト蛙亭のラジオを延々と聞きつつ、とりあえず生活しています。

 

仕事を辞めるかどうかという問題は、ここ最近のことではなく数年前からずっと考えていました。

例えば、勤めていたところは数年ごとに引っ越しを伴うような異動があるのですが、その際に、数年前から患っている抑うつが一時的にでも悪化してしまいます。私は変化が苦手で、その性質と異動という制度は非常に相性が悪く、抑うつ状態から回復するためには異動がない職場の方がいいとは考えていました。

それから、いわゆるADHDとされる特性が少なからずあると主治医から指摘されたことも、仕事を変えるかどうかを考えた理由です。この話が出たのは最近のことですが、振り返ってみれば、ストレスがかかるとADHDぽさが出てADHDぽさで仕事がうまくいかないとストレスがたまる、という悪循環を以前から繰り返している気がします。このことも、やはり抑うつを悪化させる要因になっていました。

つまり、より健やかに生きることを理由に、今の仕事を辞めて違う職に就こうと思ったわけです。何年も心療内科に通い、良くなったり悪くなったりを繰り返すことにも辟易していたところです。何かを変えるためには「環境」を変えてしまうのがよいと聞きますし、私の頭の中では、仕事を辞めてしまおう派が多数を占めていました。

 

そうは思いつつ、辞めるまでに数年かかってしまいました。

惰性で仕事を続ける方が決意をして仕事を辞めるより楽なもので、今の職場は居心地がいいし…、異動してきたばかりだし…、最近調子いいし…、と「今は辞めなくてもいい」と思える状態がしばらく続きました。なんとも都合のよいことです。

それが、今(もう辞めてしまいましたが)の職場で人間関係がぎくしゃくし始めたことがきっかけで、再び頭の中の辞めてしまおう派が元気を取り戻し始めます。そんな時に、なんとなく上司に「話があります」と持ちかけやすい瞬間がありました。今を逃したら次はない。勝手に動く体とは逆に意識は取り残されまま、他人事のように成り行きを見守っていました。

いろいろ理屈をつけて辞めた方がいいという結論には至っていましたが、結局、最後はその場の勢いで飛び出し流れに身を任せてしまいました。振り返れば、辞めるぞ!という強い決意を抱いたことは一瞬もなかった気がします。

 

人によっては、「仕事を辞めるだけなのに、何を面倒な」と思う方もいるでしょう。「死ぬくらいなら仕事を辞めろ」なんて言い回しをたまに見かけますが、私のように辞めることができない人間も世の中にはいます。私は、たまたまのタイミングでその辞められない壁を突破できましたが、一つ違えば、まだ仕事を続けていたはずです。

辞めた方がいい、辞めてもいいのでは、そう思っているのに仕事を辞められないのはなぜか。私の場合ですが、それは「未来」の考え方に原因があったように思います。

 けれど、本当は分岐ルートのどれを選ぼうと、示す矢印の先にたどり着くかどうかはわからないのです。なぜなら、それぞれの分岐ルートが一本道であるはずがなく、どの分岐ルートもそこに入ってしまえば、また複数の分岐があるからです。

 そしてなにより重要なのは、その分岐ルートは、あらかじめわかっているものではなく、そのつどの選択と進行によって分岐の数や行き先をどんどん変えてゆくということです。

宮野真生子、磯野真穂『急に具合が悪くなる』

 

未来なんてものは、ある程度コントロール可能なものだと思っていました。何日何時何分に何が起こるか、もちろんそんなことまではわかりませんが、「今」をしっかり着実に生きていけば「未来」が大きく裏切ることはない、準備が大事なのだくらいには考えていました。

だからこそ、仕事を辞めるという選択で生じるであろうリスクを、背負うことができなくなります。なぜ、そうなると予想できているルートを選んだのか、そして、自ら選んだのであればこれから起こることは自己責任ではないか。リスクがある未来をあえて選ぶ覚悟が、私にはありませんでした。

それはそれで正解というか、そういう部分もあるでしょう。そして、そうではない部分もあるような気がしています。

 

私にとっての一本道は定年までその会社を勤めあげることでしたし、実際、入社してから数年は、小さい不満はありながらもここでずっと働くのだと思っていました。それが、抑うつのために心療内科へ通うようになります。そんなことは、それこそ入社した当初は思ってもみないことでしたし、結局、定年まで同じ会社にいることもありませんでした。

少し違えば、抑うつにならず2022年を迎えていたかもしれず、そうだとしても、別の理由で定年前に退職していたかもしれません。そして、少しの違いというのは、私自身がどうにかできる場合もあれば、どうしたって太刀打ちできない強大なものの場合もあります。どれだけ「今」を着実に生きていても、巨人の一呼吸でかんたんに吹き飛ばされてしまいます。

大した人生は歩んでいませんが、それなりに生きてきたことで理不尽な出来事も多少は経験してきました。最初こそ驚きますが、吹き飛ばされてみればそれはそれで新しい出会いがあったりして、これもありかななんて思います。

 

一本道だと思って足を踏み入れてみればそこにはたくさんの道があり、やっとの思いでたどり着いた先は予想(期待)していた結果ではなかった。そして、何もないと思ったその道の先も、近づいてみればまだまだ続いていることがわかる。「こうしかない」と思っていた未来が、「こうもできる」に広がっている。そう思うようになったことで、覚悟というか諦めというか、自分なりに前を向けるようになった気がします。

確かに、どうなるか見通しのつかない未来に不安はありますが、新しいことを始めるのはわくわくするよねと虚勢を張れるくらいには元気です。さすがに、自分には無限の可能性が秘められている!なんて信じてはいませんけれど。

 

辞めることが決まってからは楽しみが増えました。気に入っている服を着て出かけるのが楽しい。コーヒーに合うお菓子を買いに行くのが楽しい。雑貨を部屋に飾るのが楽しい。次の休みは何をしようと楽しくなる感覚は、本当に久しぶりな気がします。

それだけ仕事がストレスだったということもありますが、まだ見ぬ明日に期待している部分が大きいです。少し楽観的かもしれません、が、今までうつうつしていましたし多少浮かれてもいいでしょう。そんなこんなで、今のところ退職の判断に後悔はありません。

いつか、やっぱり辞めなきゃよかった、なんて思う日がくるのでしょうか。それは今の私にはわかりようがないですし、わからなければ考えたって仕方がありません。困ったらそのとき考えればいい、なんとかなるでしょ、知らないけれど。

 

明日が楽しみだと思って眠れるのなら、それはとても幸せなことだと思います。