バスのボタンに憧れない日々

通勤でバスを使っているのだが、最近、あることに気づいた。「降ります」ボタンを押すのが面倒くさい。同じ停留所で降りる誰かに押してほしい。

幼稚園児の頃はあんなにうきうきして、そのボタンを押したというのに。

 

昨日と今日でがらりと変わってしまったのに、その変化に気づかないということがある。

前髪を切ってきた、メガネがいつもと違う、ネクタイが新しい。私はそういう変化に疎いので、変わっていない髪型に「切りました!?」と突っ込んでしまうことが度々だ。余計なことは言わない方がいいのに、言わなきゃ損だという謎の損得勘定で口が動いてしまう。気づく人は気づくのだが、記憶力か、勘が鋭いのか、何なのだろう。

目をこらして画面を見つめ、ゆっくりと、しかし確実に変わっていく部分を探すアハ体験なんてものが盛んにテレビで取り上げられた時期もあった。気づきは脳を活性化させる。細かい変化に気づく人は、単に「そういう人」なのではなく、頭がしっかり働いている人なのかもしれない。その逆は……、ああ、気づく人になれるよう努力します。

 

今でもよく憶えている「変化」がある。小学校4年生の1学期、私は授業ではいはいはいと手を挙げては、正解よりも人と違うことを言うのに心血を注いでいた。そんな私が、夏休み明けの2学期になると、手を挙げなくなってしまった。その感情はあれから20年以上(!!)たった今でも鮮明である。急に、恥ずかしくなってしまったのだ。

なんでそうなってしまったのか、心当たりがある。

だいたい、夏休みは子ども会(まだ残っているのだろうか)の行事で、大型バスに乗って海へ行く。その夏もいつものように、浮き輪でぷかぷか浮きながら友人と遊んでいた。ただ、その日は少し波が高くて、午後になるとたまに大きな波もきて、浮き輪で浮かんだ身体がぐうんぐうんと大きく揺れる状態だった。それをジェットコースター気分で楽しむのが、小学生である。

ひときわ高い波がきた時、浮き輪は波に乗り切れずそのまま飲み込まれてしまう。ざぶんと波に食べられるかのように水中に引きずり込まれ、上下も左右もわからないほどにぐるぐると身体が回転する。足がつかない、息ができない、やばい。そうやってもがいているうちに、砂浜にたたきつけられた。

友人も少し離れたところでひっくり返っている。足にまとわりつく海藻も気にせず、私たちは再び海に出る。

そのときに、私は東北の海に、具体的には秋田県の海水浴場に何かを置いてきてしまったのである。勇気とか活発さとか、前向きで明るくてポジティブな感情を。あるいは、何かを拾ったのかもしれない。とにかく、あの時の海中大回転により、私の中から何かが飛び出すなり入るなりしたのだと思っている。

 

バスのボタンを押すのが面倒になったのは、なんでだろう。行きたくもない職場に行き、したくもない仕事をして疲れているからだろうか。

いやいや、今の職場は別に嫌いではないし仕事にも特に大きな不満はないが、やっぱり休みが待ち遠しい。

またいつか、バスのボタンを押すのが楽しくて仕方ない日が来るのだろうか。それはどんな時で、私にどんな変化が起こったときなのだろう。私から何が飛び出して、何を拾ってくるのだろう。

今週は特にボタンを押したいと思うことはなかった。来週はどうだろう、そんなことを考えながら、バスに揺られる。