君には君の生き方がある『ベランダ園芸で考えたこと』山崎ナオコーラ

偉そうなタイトルになってしまったけれど、そういう話です。

 

新しい植物を迎え入れたい気持ちが高まっている。切り花ではなく、鉢に入れて土で育てるタイプの植物。今、我が家にいるのは、ホームセンターでわっさわっさと葉を茂らせていたコーヒーの木(700円くらい)だ。本当にもうわっさわっさだったので、余計な葉は容赦なく取ってしまい、今はすっきりした姿になっている。バランスを気にしてみたつもりだけれどどうだろう、いまいちでごめんね。

しばらく一緒にいるが、相変らず細いままだ。栄養を全然与えていないので、もしかしたら育成が遅いのかもしれない。振り返ってみると、お水とたまに土を補充してやるくらいで、本当に何もしていないことに気づく。申し訳ない気持ちになってきたのであとで栄養剤か何か買ってこよう、ほんとごめん。

で、何の知識もなくのほほんと育てているのだが、水やりは週に一回程度で済ませている。だんだん葉がしおしおになってくるので、そうなると水を注いでやるのだ。それから出かけたり、家にいてもなんだかんだと目を離していると、気づいたころには葉っぱがシャキッとしてくるのですごい。きちんと水を吸って、元気を取り戻す。じわじわと、エネルギーがみなぎっているのだろう。

近所のホームセンターには、北国なのにパッションフルーツの苗も売っていて、そうなると食べられるものを、ハーブくらいならチャレンジしてみようかなと思う。そんな気分だったので、『ベランダ園芸で考えたこと』を読み返してみた。

 園芸熱を高めるのにもってこいの内容なんだけれど、それだけではないので書く。

 

辛いときは、葉を落として、じっとしているだけでいいのか。苦しい時期というのは人間にもあるわけだが、そういうときは、死なない、というだけで十分なのだろう。

ほったらかしてすべての葉が落ちてしまったオリーブの木。からからの枝を見て、枯れてしまったかと思いながら再びベランダに出してやると、緑色の葉っぱが出てきたという。体力を温存するために葉を落とし、芽吹くための環境が整うその日をじっと待っていたのだ。そして、それは人間も同じだと続く。

つらい状況にある人へ言葉をかけるとしたら、なんと言うだろうか。仕事が大変で、と後輩に言われたら、「大丈夫だよ、できているよ」と励まし、「こうすればいいんじゃない?」とアドバイスするかもしれない。私はそう言われた。仕事がこなせている自信がないと言えば周りはそんなことないでしょ、と励まし、仕事の進め方を一緒に考えてくれた。

そのことが間違っているとは思わないし、そう言うしかないとも思う。つまり、励ましてアドバイスを送り、「ほら、明日も頑張ろう」と立ち上がって前に進むよう促す。ただ、わがままではあるけれど、私はそう言われることが心底嫌だった。もう立ち上がりたくないのに、それでもやれと言うのか。

 

その時の私が欲しかった言葉が、ここにある。嵐の中を無理やり進む力がないのならば、じっとしてやり過ごすしかない。嵐が過ぎて晴れたなら、のびのびとまた歩き出せばいい。言われてみれば「そういう考え方もあるよね」と思うけれど、当時の私は、本当にもう嫌だし無理だけれど歩くしかないんだ、という思考しかできなかった。

じゃあ今は?いろいろなことを経験して、自分も含めた誰かが歩くべきなのか止まるべきなのか、その判断を、今の私はできるのだろうか。いや、違うか、止まるか歩くかは本人が決めるもので、私は、「歩くのもありだけど止まったっていいんだよ」と教えることしかできないのだ。

 

植物が生きている世界と人間が生きている世界は、同じ地球上という1点が共通しているだけで、きっと大きく違う。植物には植物なりの事情がある。それは植物だけでなく、動物だって虫だって同じで、それを無理やり人間の都合に付き合わせているだけだ。それがいいのか悪いのか、ここでは言わないけれど、そのことを思い出せば、植物や動物や虫、あるいはほかのたくさんの存在から学べることがある。

……のだが、人間は何かと忙しくしているものだから、そういった些細なことをすぐに忘れてしまう。人間にせよ自然にせよ、自分と相手との考え方/感じ方の差に気づけるようになりたい。

f:id:uhi13:20200517183838j:plain

なんかもやもやしている写真

これ見よがしにハンドクリームを置いているが、こちらが我が家のコーヒーの木です