1/8雪、今年本厄ってことは、前厄は終わったってこと?

今年、前厄だと思っていたら本厄らしい。

 

=前置きが長いので、時間がない人は飛ばしてください=

先日、整体に行ってきた。年末に行ったら明らかに立ち方や骨盤の出っ張りが変わり、おもしろいから通うことにしたのだ。帰りのバス時間があるから20時50分までには終わらせてくださいね、って言ったのに会計済んで外出たら21時回ってんの。そうか、施術は時間通りに終わったけどそこに着替えやら支払いは含まないってことか、私の伝え方が悪かったねごめんね。

ちょうど21時にお開きになったのであろう新年会のグループを横目に、夜の街を走り抜けた。体が軽いのは整体の効果だろうか、いやほんとに、軽やかに走ったつもり。あと5分、3分……!ああ、お正月セールで買ったばかりの、ブーツのかかとがすり減っていく。このブーツ、歩く時の音が小気味よくて好き。大事に履きたい。

肝心のバスだけれど、二つ前の信号で追い抜かれ、そのまま行ってしまった。○○行、の文字が小さくなり、やがて右折して完全に見えなくなる。次のバスは40分後。黙って立っているには長すぎるので、元来た道を戻り、夜の街をふらふらすることにした。

そうやって歩いているうちに目に入ったのが、とある神社だった。街中にあるけれど特に有名ななにかがあるわけでもなく、普段は寂しい神社だ。いつもなのかこの時期だけなのか、ライトアップされた境内の入り口には、今年の厄年と八方塞がりの年齢が掲げられていた。

あー前厄、と思っていたらそこには生まれた年が載っている。???、神社間違ってんじゃんと思っていると厄年は数え年で考えるのだそうだ。じゃあ合ってるね。

=ここまで前置き=

 

以上、今年が本厄だと気づき今に至る。

ということは、私は前厄をそうだと自覚せずに過ごしたことになる。なんかラッキー。だって、前厄だと気づいていたら日頃の些細なことにも、「ああ、前厄だから……」といちいち大げさに反応していたと思うのだ。そういう積極的な不幸が一年分なかったんだからそれはラッキー。ちなみに、去年の総括としては、いろいろあったけれどプラスの年だった。知らなければ厄だって怖くない。

じゃあ、本厄だと知ってしまった今、あらゆることを「本厄だから……」で片づける理不尽な不幸製造マシーンになるしかないのかと言えば、もちろんそんなことはない。例えば3等賞が当たったとして、「厄年だから3等か」と悲しむか、「イエーイ3等ぉお!!!」と喜ぶかは個人に委ねられている。厄年だからになるのか、厄年でもになるのか、それを決めるのはその人自身だ。

一応、体には気をつけるけれど、病気になるときはなるし事故に遭うときは遭う。32年も生きていれば、がたの1つや2つ出てくるだろう。そういう年齢だということだ。それに、ある出来事というのは急にやってくるものではない。日々の積み重ねがたまたまその瞬間に発露する、のだと思う。今年、なにか悲しいことや苦しいことがあっても、それは厄年だからではなく、どこかで気づくタイミングがあってそれを無視してきた結果にすぎないのだ。生き方を振り返る、そういう時期でもあるのかもしれない。

 

さくらももこさんのエッセイだったか、ノストラダムスの予言に絡めて世界は毎日どこかで滅んでいる、みたいな話をしていた。信じるものがあって、なにかの理由でその世界が壊れてしまう。そうしたら、その人にとっては世界は滅んだも同然なのだ。ノストラダムスの予言を信じる人にとっては、1999年7の月に、確かに世界は滅んでいるのだ、というような話。

 

私たちは、世界を「私」を通してでしか認識できない。なにを頼りにするのかは「私」の意志だ。科学でも宗教でもなんでもいいけれど、拠り所にするものがあって世界は成り立つ。

厄年を信じるかどうかも、その一つだ。信じる人にとってみればすべては厄年のせいだろうし、信じない人にとってみればたまたまの話になる。私にとってはどうだろう。厄年中心の考え方はしたくない。32歳、1年はいろいろな意味で貴重なのだ、そんなもったいないことはできない。でも、うーん、申し訳ないけれど、都合のいいときだけ厄年のせいにして逃げてしまいたい、かな。誰に申し訳ないのかはわからないが。

先人から受け継がれてきた知恵だ。この年齢ぐらいに大きく調子を崩す人が多いのはそうなのかもしれない。まあ、いつも通りに過ごせばいいんじゃないでしょうか。

 

それよりも、今日の雪でお気に入りのブーツに水染みができてしまった。防水スプレーはしていたのだが、まさかあんなところに水たまりがあるなんて……。さすがにこれは、厄年のせいではないだろう。