私(たち)は不幸になりたがっている

友人と、仕事の愚痴を言い合った。

 

なんであんなすぐ怒鳴るような人が栄転しちゃうかなあ!人事部とか上司はわかってないの?そんな見る目ないようなところで働いてて、お先真っ暗だよね!みんな長く働くのが偉いと思っていて効率とか全然無視だし職場の雰囲気悪いし、数字を出せばいいみたいな考え方には正直ついていけないし。でもな、ほかにやることないから今の仕事続けるけど本当はやめたいよねー

本当に子どもじみた内容なんですけれど、愚痴なので許してほしいです

 

そんな話をしながら、ああ、私たちは幸せを追い求めるようなことを言いながら不幸に引っ張られているんだなあと感じた。いや、不幸になりたがっているのかもしれない。

 

 

ところで、幸せとか不幸とか、誰が決めるのだろうか。

年収が、家族構成が、健康状態が、人間関係が、能力が、どうだったら幸せで不幸だという明確な定義なんてない。あの人は○○が××で大変だ、という人はもちろんいるが、だからといって他人である私たちが不幸のレッテルを貼っても意味はない。年収がいくらあっても本人が不幸だと感じれば不幸だし、逆にお金がなくても幸せと感じればそうなのだ。

幸せも不幸もその人自身が決めていいのだ。幸せだと思ったら幸せで、不幸だと思ったら不幸なのだ。

 

 

ある人に、私は不幸になりたがっている気がします、と言ったら、うん、そんな感じがするとあっさり言われてしまった。うーん、そんなにじめじめしていたか。

「じゃあさ、あなたにとっての幸せって何?」

よく寝ること、と返したら秒でつまらないと言われた。でもさ、よく寝ることだって人生においては大事だし、よく眠るためにはメンタルとか体調が安定していないといけないし、よく寝られる状態が幸せだというのは結構いい答えじゃないんですかね??

僕はこう考えるけどあなたに考えを押し付けるつもりはないよ、と言いながら人の答えを一蹴するあたり、本当に腹立たしい。そんな人に相談する自分のふがいなさがさらに腹立たしい。

 

幸せって日常生活に転がっているものなんだよ、誰かに与えられるものじゃなくてさ。なんて、どこかで聞いたような話が続くんだけれど、過去に聞いたことがあるくせにそれを実践できていないのならば、聞いた意味がない。幸せになりたい、幸せになろうという意思が私にはないから日常の幸せを見つけられないし、不幸側にころころ転がっているのだろう。

別に、何かあったってわけではない。仕事もあるし、食事もあるし寝床もあるし友人もいるし家族もいる。健康面でも問題はない。ただ、職場の不満とか、将来への不安とか、そういうもやもやしたものが、私をネガティブ思考に導き、不幸へと引っ張るお化けになっているのだ。

僕なら戦うけどね、とその人は言った。逃げるのはお勧めしないよ、あとで後悔するだろうし、とも。そうなのだ。私には、立ち向かう元気も勇気も何もない。私がこの人に相談するのは、戦うという選択肢を教えてくれるからなのだろう。

 

不幸になりたがるのは、そこにいるのが楽だからだ。立ち向かったりチャレンジしたり、そういう「戦う」行為をしなくて済む。そーなんだ、大変だったんだね、と言って休むことを許される。私ってかわいそう、と自分を慰めることもできる。その楽さ、居心地の良さに抗わなければ不幸から脱出することはできない。

あー、幸せになるのって難しい。誰も定義できない、自分で見つけるものだから難しいのだ。本当にこれが幸せ?と確認しながら進むしかないから。

きっとこれからも、つらいこととか苦しいこととかたくさんあるのだ。嬉しいことも楽しいこともたくさんあるのに、その陰になぜか隠れてしまうのだ。しばらくは、かき分けてかき分けて、その中から幸せを見つけなければならない。あんまりうじうじしていても仕方ないし、よし、散歩にでも行ってこようか。

 

なんだかんだ、こうやって相談に乗ってくれる人がいるあたり、私は幸せなんだろうなとは思います。